宗教改革で考えられていたこと【倫理の偉人たち】

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  • 2015年03月28日公開
キーワード
倫理
哲学
宗教改革
ルター
カルヴァン

倫理を学ぶ意義とは

倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。

そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。

しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。

何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。

倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。

前提の確認

宗教改革の話をするためには、まずは宗教改革以前のキリスト教のことについて知る必要があります。

ルネサンスによって人文主義が広まり、人間の価値が強く意識され、神の相対的価値は下がってしまいましたが、未だその影響力は健在でした。

しかし、キリスト教も時間が経つと、その制度が腐敗するようになっていたのです。

宗教には、何かしらの聖典に書かれていたことを順守する、という特徴があります。しかし、聖典に何が書かれており、それが何を意味しているのかがわからなければ、順守のしようがありません。

つまり、聖典の解説者が必要だったのです。キリスト教の場合では教会がその役目を担い、民衆に教えを広めていきました。

しかし、それが、キリスト教の階層を生み出すことにつながったのです。

そもそも、中世の時点で、トマス・アクィナスが「教会生活を大切にしないと、救いがない」と言ってしまったがために、民衆が教会に依存するようになりました。

参照:トマス・アクィナスが考えたこと【倫理の偉人たち】

http://www.juku.st/info/entry/1152

 

当然、教会は力を持ち、民衆を支配するようになります。

そんな中、人文主義が広まりました。

人文主義は「人間は素晴らしい」とする考え方ですが、もう一つの特徴として、個人に目を向けるようになったということが挙げられます。

当時のキリスト教の制度は、あくまで教会に依存するような形となっており、しかも、そこには聖職者と民衆の差がありました。

個人の力でどうにかできないものか、そういった思いが、宗教改革につながったといえます。

人文主義とキリスト教について
少し勘違いされそうなことなのですが、人文主義はキリスト教から離脱しようとする考え方ではありません。人文主義はあくまで人間や個人に焦点を当てるだけであり、真理を理性に求めるか、信仰に求めるかはまた別の話です。個人が考えることによって真理に到達しようとするならば、それは哲学で、個人が信仰することによって真理に到達しようとするならば、それはキリスト教です。宗教改革とはキリスト教的人文主義と言われるように、集団的な信仰から、個人的な信仰に移行するための革命だったといえます。 

宗教改革って何?

そもそも宗教改革とはなにかについてお話ししておきましょう。

宗教改革といえばルターを真っ先に思いつくかと思いますが、宗教改革はそれだけではありません。カルヴァン派やヘンリー8世やエリザベス1世によるイギリス国教会も含まれます。

ようは、もともとキリスト教といえば1つの強大な教義に支配されていたのですが、ルターあたりをきっかけに、いくつもの宗派に分かれてしまったことを宗教改革と呼ぶ、と思っておけばいいでしょう。

具体的には、ルター派のプロテスタントカルヴァン派からなるユグノーゴイセン、近世イギリスに生まれたイギリス国教会、そして従来から続くカトリックに分かれてしまったのです。

組織は当然一枚岩であったほうが強いのですが、宗教改革によってキリスト教のそれが崩れてしまった、といっていいでしょう。

ルターが考えたこと

では宗教改革がどのような経緯で発生したのか。そしてその中心人物たちがどのようなことを考えていたのかを見ていきましょう。

キリスト教の制度が腐敗している中、とんでもない事件が起こります。

なんと贖宥状を販売するというのです。

贖宥状というのは、それがあれば天国にいくことができるというものです。

天国にいく権利が金銭によって購入できるなんて、キリスト教らしくありません。これに対して、文句を言ったのがルターなのです。

ルターは贖宥状の販売に対する抗議として95条の論題を提出しました。

しかし、そもそも贖宥状がローマ教皇やドイツ諸侯の思惑があったがために、この論題そのものが宗教上の論争ではなく、政治も絡んだ論争になってしまったのです。もちろんキリスト教側も黙ってはおらず、ルターにその考え方を改めるように要求しましたが、ルターはこれを拒否。1521年に破門されました。

それではルターはどのようなことを考えていたのでしょうか。主にその思想は、まさにキリスト教的人文主義とも呼べる考え方で、信仰義認説万人司祭主義にあらわれています。

信仰義認説とは信仰さえあれば天国に行けるといった考え方です。

今までは人間がどのようなことしようが、原罪から逃れられないといった考え方が中心ではあり、そしてその解決策は教会にあると言われてはいましたが、教会を通さずとも、聖書さえあればだれでも大丈夫というのです。

もう少し深めますと、本来聖書とは難しい書物で、それを理解するにはなにかしらの教義だとか教会による解説とかが必要だったのです。けれども、ルターは、「大丈夫、わからなくても個人でわかろうとすればいいさ」というスタンスであり、そして「わからなくても、聖書に書いてあることが正しいと信じていればいい」(これを聖書中心主義といいます)と言うのです。

このように、解釈・教義を個人に委ねるという考え方は、みんなが聖書を理解した司祭様のようだということで、万人司祭主義と言われるのです。

教会から離れ、個人を重視した思想はまさに人文主義者といえるでしょう。 

 カルヴァンが考えたこと

ルターに並んでもう一人重要な人物といえばカルヴァンでしょう。カルヴァンが主張した思想には予定説というものがあります。

予定説とは、その人が天国にいくのか地獄にいくのかはすでに神によって予定されているというものです。そしてその予定は人間がどうこうすることで左右することはできないというのです。

彼が言うには、人間がすべきことは、神様が定めた予定をただただ遂行するだけだというのです。そしてその1つが職業です。神様はこの世界を運営なさっており、その運営を円滑にするために、人間1人1人に職業を与えたというのです。

ですから、人間は職業を全うすることが善いこととされるのです。

これを職業召命観といいます。そして人間が稼ぐ金銭とは、決して悪いものではなく、神様の予定をうまく進めてくれたご褒美だというのです。

面白い考え方ですよね。お金と聞けば少し悪いイメージがつきまとってしまうものですが、そのお金に良いイメージをつけた点は本当にすごいと思います。また、富裕層はこの考え方を気に入りました。ユグノーだとかゴイセンだとかピューリタンといった人々は、まさにこの考え方を持った人々です。

ちなみに17世紀〜18世紀に、オランダでは金融が発達し、イギリスでは産業革命が起こったのは、この考え方がかなり浸透していたためだという主張もあります。

宗教改革の現代的意義

このあたりはいわゆる近世と呼ばれる時代なのですが、だんだんとキリスト教が現代的に移り変わっていくのがわかると思います。

人文主義やモラリスト、そして近代合理主義がキリスト教の教会制度を外から崩すものであれば、宗教改革はそれを内から崩すものでありました。

これを機に、キリスト教の権威は失墜したといえます。

ちなみに、近代合理主義では、キリスト教的な神は存在しないと主張しかねないような考え方が生み出されていくのですが、それはキリスト教の権威が失墜したためだと言えるでしょう。

もし失墜していなかったら、ガリレオのときの裁判のように、言説の撤回を求められるからです。

 

 

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