自然という言葉は曖昧すぎる!
現代文でテーマとして取り上げられることが多い“自然”。
私たちが人間であり、何かに人為をもたらす存在である以上、自然がよく取り上げられるテーマとなることは、当然のことと言えるでしょう。
自然と一言で言われてイメージされるのは、やはり森や海、そしてそこに住む動物たちではないでしょうか。
けれども現代文で用いられる“自然”とは、そういったものとは少し違います。
もちろんそのイメージも一部には含んでいるのですが、それよりももっと壮大な、かつ曖昧な概念なのです。
今回の記事では現代文に用いられる“自然”のイメージをしっかりと捉えられることを目標とします。
自然に人為は含まれるのか?
私が自然について関心を持ったのは、小学校の道徳の授業のときでした。
教科書の見開き2ページには、人々の生活が描かれていました。森、川、海、学校、高層ビルなどなど…
そしてそこで何か活動をする人々が描かれていました。魚釣りをする人、BBQをする人、車を走らせる人…
小学校の先生がこういう質問をしました。
「自然が関わっているものはどれかな?」
私を含めた生徒たちは競って手をあげて、魚釣りだとか、庭でのガーデニングだとか、そういったものを述べていったのです。
確かにそれらは正解です。けれども今でも覚えているのは、先生の次のような言葉でした。
「実はここに書かれているものは全て自然からできたんだよ。車だって鉄からできているし、石油は昔の動物の化石からできている。ビルのコンクリートだってもとは自然だし、電気だって自然を利用して生み出されているからね」
正確にこのように言っていたのかは定かではないのですが、「確かに」とすごく納得したときの自分を、今でも覚えています。
私たちの生活は自然をなくしては成立しません。
というより、自然を利用せずして生み出した物体なんて存在しないのです。
じゃあ私たちは、自然から独立して生きることはできるのでしょうか。
あるいは自然と対立して生きていくことはできるのでしょうか。
これは、自然にまつわるテーマだとも言えるのです。
私たちは自然の枠組みの中に生きているのか?
あるいは自然の枠組みの外に生きているのか?
自然の枠組みの中に生きているとすれば、私たち人間は自然の一部であるのだから、私たちの行動自体だって、結局自然に過ぎないのです。
いかに活動を活発させようとも、自然にとっては大したことはないのかもしれません。
自然は生態系を破壊しているといいますが、逆に人間の活動によって、新しい生態系が誕生しているだけなのかもしれません。
逆に自然の枠組みの外に生きているとすれば、私たちは自然を破壊する可能性があります。
自然も滅び、そして人間も滅ぶ。この地球に“自然”が存在しないことになってしまいます。
この違いはかなり重要です。
一言で言うなれば、人為は自然の一部なのか、あるいは自然とは異なるものなのかという考え方の違いです。
一般的には後者の意味をとられることが多いですが、ときたま「自然=人間を含んだ世界全体」という意味合いで使われることがあります。
そのときは純粋に「世界」と訳しておくとわかりやすいと思います。
西洋と東洋の自然観
自然と人為が別物であるという立場が取られた場合、今度は自然と人為、どちらが上位に位置づけられるべきなのかという議論が生まれます。
最近では環境問題や災害が話題となり、自然が上位に位置づけられるようになりましたが、人間の深層心理ではそうとも言い切れない部分があります。
これについては西洋と東洋の自然観を比較すると良いでしょう。
西洋では、自然は征服の対象と考えられます。これはキリスト教と科学が融合した姿勢とも言えるでしょう。
キリスト教ではこの世界に存在するありとあらゆるものは、人間のために神から与えられたものと考えます。
つまり「人間が自由に利用してよい物」と考えられているのです。そして科学は、「自然を理解しよう」「自然を利用しよう」という姿勢があります。
もともとは好奇心から始まった科学でしょうが、哲学の世界で自然をどのように扱うべきかが議論され、結論として「解明すべき」「利用すべき」という結論が出てきてしまいました。
宗教でも科学でも、自然は人間の下位に置くべきと考えられていたのです。
一方で東洋では自然は人間より上位に置かれます。日本において典型的なのが、八百万の神です。
木には木の神様が、海には海の神様がいると信じられていました(あるいは、今でも信じられています)。
それはすなわち、人間以外の自然は、人間より上位に置かれていることを意味します。
この姿勢は芸術にも出ていると言われています。
特にガーデニングに関してです。
西洋式では左右対称、完璧な図形を求めて木々が切られたり植えられたりします。
東洋は、確かに人間の手がそこに加わってはいますが、あたかも「人の手が加わってはいないかのように」示すことを良しとします。
盆栽はまさにそれでしょう。
西洋の人が盆栽を作ったとするなら、「いかに四角い木あるいは丸い木を作り上げるか」を目指すでしょう。
しかし東洋の盆栽は、「いかに自然らしく美しくあるか」を目指しています。
自然とは「もともとの姿」
自然と人為の関係について今まで議論してきましたが、最後に少しばかり変化球をかけたいと思います。
自然の一つの定義として、「もともとの姿」というのがあります。
いわば人為的な操作が加えられていない状態。
山や川にある緑や青はまさに自然に該当するでしょう。
しかし人間にも「もともとの姿」があると言われることがあります。その主張をしたのが、ルソーです。
ルソーは「自然に還れ」という格言を残していますが、これは自然界を意味したものではありません。
「もともとの姿」という意味で、使っています。
人間たちはもともと平等社会の中で生きていたが、私有財産制が誕生してしまったがゆえに不平等が生まれてしまったと主張します。
そんな現代社会を捨てて、良き過去を取り戻せ、「もともとの姿」に戻ろう、という意味で、「自然に還れ」と主張しているのです。
とはいっても、いつの段階を「もともとの姿」と呼ぶのだ…と思うかもしれませんが、おそらくルソーが唱えたのは、神が創造した時点での構造・仕組みに戻ろうということだったのでしょうね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。やはりまだ自然についてのイメージがふんわりしていると思いますので、いっそのこと定義してみたいと思います。
① 人為を含んだ、世界の仕組み(生態系とか)・流れ(歴史とか)のこと
② 人為の及んでいない世界のこと
→人為より自然の方が上(=東洋的)
→人為より自然の方が下(=西洋的)
③ 「もともとの姿」
ここで「世界」という言葉を使いましたが、「世界」は「存在全て」程度に思っておいてください。そこに人為が関係するのかしないのかといった区別があるぐらいです。
注意していただきたいのは、“自然”という言葉には色々な使われ方があるということです。
読んでいる文章に応じて、どの意味で自然という言葉を使っているのかを意識しながら読み進めていくと、より理解が深まるでしょう。
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