なぜ国語を教えることを嫌う講師が多いのでしょうか?
それは皆が国語は何を教えればいいのかわからないこと、そしてそこに書いてあることを深く語ることの自信がないからではないでしょうか。
本稿をお読みいただくまでに、記事「国語って何を教えるの?」をお読みになることをおすすめします。
シリーズ「現代文のキーワード」は、書店にあるワードの解説書とは一線を画します。ここに書かれていることは専門知識とは違い、私自身が、その言葉を見て「思ったこと」「感じたこと」を徒然と書いてあるだけです。
シリーズ「現代文のキーワード」は、将来、国語を教えるかもしれない講師の皆さんが、現代文に出てくるキーワードを通じて、抽象的な”何か”を深く考えていただくことを目的としています。そして考えて得た結果が、生徒への現代文の深い解説につながると、私は確信しています。
人の名前を奪うことは、アイデンティティを奪うことに等しい
今回の記事は、『千と千尋の神隠し』の湯婆婆のセリフが主なテーマです。
というのも、アイデンティティとそのセリフが深く関係していると、『私』は考えるからです。
(作者がどんな意味を込めて作ったのかはわからないため、推測になることはご容赦ください)
ところでアイデンティティとはなんでしょうか?
これを和訳するとしたら「自己同一性」と訳すことになるでしょう。自分が何者であり、何をすべきかを確信している状態のことを指します。現代社会ではアイデンティティの喪失だとか、アイデンティティの確立だとか、ある意味、個人の生き方に関係するものとして取り上げられています。
まぁ確かに。
昔のように、ナショナリズムな考え方が衰退していき、さらには集団においての自分の役割を考える社会ではなくなってきた今では、当たり前といってもいいかもしれません。いいえ、むしろ、国家とか共同体とか、集団が強く規定されていた時のほうが、ある意味アイデンティティは確立されていたといっていいでしょう。
国家があれば、人の生き方は国家の繁栄を考えればいいだけです。自分の家が武士の家系であれば、武芸を磨き、国防に一役買おうという道を考えることができます。
けれども今では、個人それぞれに役割を与えてくれるような、上位の存在が失われている。だからこそ、アイデンティティの問題が発生しているといえます。
アイデンティティが個人に与える影響
これについては触れている書籍があまりありません。「よくわからないけれど、とりあえずアイデンティティが大切」というところから、アイデンティティの喪失を問題として取り上げられています。けれども、そもそもアイデンティティが大切なものでなければ、それは問題になりません、でも問題となっている。なんでアイデンティティが大切なのでしょうか?
これは完全に私見ですので、私の意見に対して皆さんも自分自身で考えてみてください。その思考過程が、アイデンティティに対する深い理解に繋がるはずです。
アイデンティティとはいわば、「自分の生き方」を規定するものだと考えます。自分が今何をしたいのか、これから何をしたいのかといった欲求から、何をすべきなのかの目的に落としこむ。そしてそこから、自分の普段の生活を規定していくものです。
仮にアイデンティティがなくなったらどうでしょうか?今私がここに生きている意味がわからなくなり、普段の生活に意味を感じなくなり、不安に駆られることだと思います。当然そこには活力がありません。
もし今の人間のみんなが、「自分は○○すべき」と強く確信している社会だとしたら、イキイキとした社会がそこに表れることだと思います。
昔はそうだった。農民には農民の生き方が、武士には武士の生き方があったので、考えることが必要なかったのです。
しかし今ではそれが解放されてしまい、私は今何ら役割を与えられない、一人の個人として生きているだけになりません。誰にとっての、何者でもない、無色の人間です。
とはいえ、逆にアイデンティティを持っている人は何を糧に生きているのかというと、それもわからないところが多いです。自分が将来何かしたいことがあれば、それでアイデンティティが発生するのかというと、そうではない気がします。そこから、自分はどんな人間であり、自分は何をすべきかまで自分に対する深い分析があって、初めてアイデンティティを確立できると、言えそうです。
「私は○○のような人間であり、○○を目指している」
これをはっきり言える人は、アイデンティティを確立しているといっていいのかもしれません。
アイデンティティの喪失
すでに書きましたとおり、昔は組織や身分がそれを規定し、提供してくれていました。今では自分自身がそれを探す時代になってきています。しかし、アイデンティティが問題となっているのは個人の問題ではなく、社会問題にも発展しているのです。
国家・文化とアイデンティティ
いかにナショナリズムが崩れたとはいえ、日本人は自分が日本人であることをある程度は誇りに思っていると思います。スポーツのときには日本チームを一致団結して応援する姿もそうでしょうし、会話の中に「日本人は〜」とか「外国では〜」とか、日本と外国の特徴を区別するのも、その表れといえるでしょう。もし、
「あなたは明日から日本人ではない。米国人だ」
と言われたとしたら、反発を感じる人もいるのではないでしょうか?それは国家に対して少なからずアイデンティティの源を感じているからです。自分は日本人であり、日本人としてすべきことがある、そう思っているのではないでしょうか。
この現象が国際問題に発展することがあります。特に移民問題でこれが議論されます。グローバル化が進むことによって、途上国にいる優秀な人材が先進国に移住するというのはよくあることなのですが、そこで先進国は、その移民が自国に馴染みやすいように教育することがときたまあります。
それを統合政策といいます。
昔では同化政策と言われていたのですが、その教育の内容が過去の居住国を否定し、今住んでいる国のアイデンティティを植え付けるような内容であったため非難を受けました。
そのため、統合政策と改め、昔の国のアイデンティティを奪わないような教育をしようという動きが起こっています。
今、日本が巨額の借金と大災害で崩壊したとしましょう。日本人は優秀な労働力になりえるとして世界各国が移民として受け入れることを表明し、皆さんはどこかの国に移住することになりました。とりあえずその国がA国だとしましょう。
皆さんは馴染みのないA国の言語を学ぶことを強いられ、A国の文化、A国の食生活に馴染むことを強いられます(まぁこれは移民である以上仕方ないことなのですが)。これだけだとまだいいのかもしれません。ではさらに、日本語で会話すること、日本語の文章を書くこと、洋服を着ることが禁じられ、A国独自の服装をすることを強いられたとしたらどうでしょうか?さらにとある神を信じ、崇拝することを強いられたら?
なんとなく「嫌だ」って感じがしませんか?なぜ信じたくもない神を信じなきゃいけないのか。なぜ自分の着たい服を着れないのか。ちなみにその怒りは、不自由から来ていますか?
もしA国が欧米の国だったら、おそらく皆さんは特段受け入れやすいことでしょう。けれどもこれが途上国だとしたら?
皆さんの心のなかで
「私は日本人だ」
という心は生まれないでしょうか?
これが、アイデンティティです。
自分はこうあるべきと心の中で思っていて、そのあるべき姿というのは文化だったり国家から受け継いでいたりするものなのです。ゆえに、文化や国家をないがしろにされてしまうと、自分という姿を失ってしまいそうな気がするのです。
アイデンティティの大切さ
ここまで来て、やはりこう思う方もいらっしゃるでしょう。
アイデンティティってそんなに重要なの?
ではここで、皆さんから究極のアイデンティティを奪ってみましょう。今日から、あなたの名前はなくなりました。番号11123番です。まるで収容所やら刑務所やらでの、囚人のようです。
あなたは友人から
「よう11123番」
と呼ばれます。市役所や病院でも名前で呼ばれることなく「11123番」と呼ばれ、家族からも自分の好きな人からも「11123番」と呼ばれる。告白シーンとか面白いですね。
「私は11123番のことが好きです」
…すごくシュールですね。まるでそこに実態のある人間がいないかのようです。なんか怖くないですか?まるで自分がそこにいないかの感覚がしませんか?国家が奪われると、「私は日本人」と言えません。
「今からおまえの名前は『千』だ。」
湯婆婆は名前を奪うことで自分のコントロール下においてしまう力を持つといいます。そして自分の名前を忘れると、不思議の世界から帰れないとも…
ある意味、これは嘘ではないかもしれません。皆さんがもし10年も、「11123番」という番号を背負って生きていたとしたら、そのときの皆さんは、もとの自分を忘れていることでしょう。そしておそらく、性格も所属も異なることになってしまいます。
もし自分が○○であると意識していたら、「こんなところで働いている場合じゃない!本来の私は○○していたはずだ!」と強く意識できます。
けれども自分の名前を忘れて、11123番だと思い込んでしまうと、「11123番である私はここで長く働いてるなぁ」と思い初めてしまうのです。
今では「私は福岡出身です」と言えるかもしれませんが、番号に縛られると、「私は○○所の出身です」という自己紹介から始まることでしょう。
アイデンティティ。
それは本当に、大切なものなんですよ。
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