ライプニッツが考えたこと【倫理の偉人たち】
倫理を学ぶ意義とは
倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。
出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。
正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。
そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。
それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。
しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。
倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。
何より、日常生活を豊かにしてくれます。
今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。
倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。
ライプニッツという人

ライプニッツといえば数学者と思ってしまうのは仕方がありません。
(彼はニュートンと並んで微分の発見者と言われていますからね。)
しかし、彼のすごさはそこにとどまりません。
近世のアリストテレスと呼ばれるぐらいに物知りでした。
論理学も数学も心理学も自然学も、とにかくどんな学問でも知っていたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチがあらゆる”技術”に精通しているというのならば、
彼はあらゆる学問に精通していたのです。
微分を見つけました
微分とは一体どういったものでしょうか?
倫理なのになんで微分について考えなきゃいけないんだというツッコミがありそうですが、
微分こそがライプニッツの思想の源泉でしたので、理解するに越したことはないです。
微分とは何か
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簡単にいってしまうと、微分とは次元を1つ繰り下げる作用を持っています。
3次元だったものを2次元に置き換えたり、4次元のものを3次元に置き換えます(少々雑な説明ですが)。
つまるところ、ある立体が存在するとすれば、
それが有する面積はその立体を構成する式を微分すれば求めることができるというのです。
確かに極限という手法を用いればそのようなことは可能なのですが、
ライプニッツはこれについてはやはり疑問は持っていたようです。
そしてその疑問が、ライプニッツの思想にインスピレーションを与えたようです。
頭の中に立体をイメージしてください。
それをいかに切り崩し、いかに押しつぶそうとも、それは常に三次元であり、
立体の性質を損なうことはありません。
微分では確かにlimを用いて、「ほとんど0」といいつつも、結局変数には0を代入していますが、
本来であれば、どんなに0に近づけようともそれが消滅するはずがないのです。
立体はどこまで細かくしても常に立体だし、面をいかに細かくしても常に面です。
いかに分割しても、もともとの要素は残ってしまう。
彼はこの特徴から、モナド論を思いついたと言われています。
世界は調和されている
ライプニッツはデカルトの系譜に位置づけられます。
(参照:デカルトが考えたこと【倫理の偉人たち】)
彼が唱えたのはモナド論と呼ばれるものであり、
「この世界はこれ以上に分割できないモナドによって構成される」
と言います。
デカルトは、思惟と延長を明確に区別しましたが、ライプニッツはこう言うのです。
「『○○が存在する』って言うけれど、それって結局これ以上分割できない存在が集まってできているだけじゃないか?」
いわゆる原子に近い説明を持ちだしました。
確かに、椅子だとか机だとかいう存在は、
結局、小さな原子という存在が集合して成立しているものなのですから、
椅子という存在は原子の存在に依存しているのです。
つまり、目の前にある椅子は”実体”としては存在しないものなのです。
これだけの説明だと、モナドと原子って同じじゃん!と思うかもしれませんが、彼はこう言うのです。
「延長だけじゃない。思惟だって結局モナドによって構成されているんだ」
なんと、愛だとか平和だとか、そういった観念さえも、モナドによって構成されていると言うのです。
彼が言うモナドには、思惟の性質も、延長の性質ももたないのです。
デカルトが言う、思惟だとか延長だとかいう存在は、
すべてモナドを集合させて”表出”されたものだと言うのです。
例えて言うなれば、男性という存在だけを見れば単なる男性ですし、女性という存在だけれを見れば単なる女性ではありますが、
男性と女性が抱き合っている姿を見ると、人はそれを”愛”だと認識するというようなものです。
男性と女性をモナドとみなして、愛を1つの"表出"されたものだと思えば、わからなくもない話です。
さて、この世界は様々なモナドが組み合わさって構成されているというのですが、
ライプニッツは、その構成は神の意図によって作られたと言いました。
これが、予定調和説です。
言うなれば、
スピノザはこの世界というプログラムを神とするわけですが、
ライプニッツはこのプログラムを作った人を神としているのです。
(参照:スピノザが考えたこと【倫理の偉人たち】)
この世界はプログラムされているので、この世界の行く末は決まっている。
いわゆる運命論に近いことをライプニッツは主張しました。
結局のところ合理論って何?
デカルト・スピノザ・ライプニッツたちは合理論の系譜にあると言われても、
彼らが何を主張しているのかがこんがらがってくると思うので、このあたりで整理しておきたいと思います。
合理論を理解するためには、
彼らが一貫して”存在”を議論していることに注目しなければなりません。
そして経験論と対比すると、以下のような図になります。

合理論は、
存在を説明するために、説得力のある存在の原因を設定します。
一方で経験論は、
私たち人間が存在をどのように認識しているのかを考え、そこから、存在は何たるかを考えます。
合理論の系譜に位置付けられる3人を紹介しましたが、
彼らに共通することは存在の原因を追求していることで、
異なる点はその原因に何を仮定したかが異なるのです。
簡単に3人の主張をまとめますと、以下のようになります。
デカルトは「存在するものとは思惟と延長である」・・・いわゆる観念の世界と物質の世界の想像です。デカルトの考え方に従えば、愛だとか平和だとかも”存在”として捉えるのです。
スピノザは「存在するのは神のみ」・・・汎神論と呼ばれるように、世界=神だとしてしまえば、この世界を満たすものはなくなってしまいます。するとあらゆる観念・物質は、神の一部を切り取ったものと捉えることができるのです。
ライプニッツは「存在するのはモナド」・・・全ての存在は小さな小さなモナドによって構成されているという考え方。いかなる観念・物質もモナドごとに分割できると考えてしまうのです。
合理論だとか経験論だとか、少し複雑ではありますが、
1つの軸を捉えれば、理解はすごく簡単になります。