アウグスティヌスが考えたこと【倫理の偉人たち】

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  • 2015年03月11日公開
キーワード
中世
キリスト教
西洋
哲学

 倫理を学ぶ意義とは

倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。

そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。

しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。

何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。

倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。

・ソクラテスが考えたこと【倫理の偉人たち】http://www.juku.st/info/entry/1137

・アリストテレスが考えたこと【倫理の偉人たち】http://www.juku.st/info/entry/1145

・プラトンが考えたこと【倫理の偉人たち】 http://www.juku.st/info/entry/1138 

も参考にしていただくと、理解が深まると思います!


アウグスティヌスという人

中世最大の教父、と言われているのですが、若かりし頃は恋愛三昧演劇三昧の生活だったようです。現代風に言うなれば、毎日彼女とデートにいって、家では映画を観てばかりいる生活という感じでしょうか。実に羨ましいです。

しかし、彼はきちんと勉強していました。16歳にはカルタゴに進学し、そこで勉強をしていたようです。

ゆくゆくは真理とはなんぞやと自分に語りかけるぐらいになり、それを探し求めて本を読み漁ったり、マニ教に没頭したりしていました。最終的にはキリスト教に真理の可能性を見出して、キリスト教徒になったようです。

そんな彼が自分の人生を本にしたのが『告白』、そして自分の考えたことをまとめたのが『神の国』という本でした。

前提の確認

紀元前のギリシャの偉人たちが亡くなってからはキリスト教の時代が始まります。アウグスティヌスが活躍するのは300年代です。

キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学・倫理の世界を支配するようになりました。例えば、313年のミラノ勅令です。かの強大なローマという国において、キリスト教が公認になりました。しかも4世紀末にはキリスト教が国教となる...

キリスト教がどんどん勢力を伸ばしてきます。

しかし、宗教というのはやはりどこか哲学と似ているもので、その考え方について違いが生まれてきました。キリスト教OKになったということは、キリスト教が発展していったということですからね。例えば、ニケーア公会議ではどの宗派が正統なのかという議論があり、アリウス派は異端となりました。さらにはグノーシス主義に代表されるように、様々な信条も登場。「神は存在し得ない、ゆえに私は信じる」などといった言説も生まれ、とにかく争いが始まります。

このように、当時は教義がいろいろと生まれ、キリスト教の中で本当に正しい教義とはなにかが曖昧になってきたという時代でもあったのです。

以上をまとめますと、アウグスティヌスが生きた時代というのは、キリスト教内部において厳格な論理を積み上げた教義というのが存在せず、キリスト教は危うい状態にあったのです。

もちろん、キリスト教側は手をこまねくだけではなく、教父を設置しました。教父とはいわば弁護士みたいなもので、キリスト教がいかに正しい宗教かを証明するための論理を組み立てる職業のことです。

アウグスティヌスは、最大の教父。つまり、キリスト教の論理を組み立てたものとして知られています。

 

自由意志

アウグスティヌスはまずはじめに、一番めんどくさい論理を崩すことにします。

「神って存在するんですか?」

神様が存在することを証明することは本当に難しい課題です。まぁ逆に存在しないことも証明できないわけなのですが...ちなみにこれはグノーシス派という集団が問いかけた問題です。

「存在する。そもそも君たちはなぜ『神』という概念を知っているのだ?本物の神を見たことがないはずなのに、神という超理性的な存在を知っているではないか。それは神という存在を、認識しているということではないのか?」

ん?なんかこの論理どこかで見たことがありませんか?

そう、プラトンのイデア論とほとんど同じロジックです。「本物の善というものをみんなは知らないはずだが、それを普通に会話につかって、それで互いに認識を共有している。ということは、本当はその存在があるということではないのか?」というイデア論のきっかけそのままです。実はアウグスティヌスは、学校での勉強のときに、プラトンのイデア論にふれ、新プラトン主義を打ち立てた人物としても知られています。

 

知っている=存在する、という論理について
かなり重要な考え方なので少し紹介しておきます。この当時は人間は概念を作り出すということを意識していなかったようです。例えば、、だとか善だとか、友情だとか、そういったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、「もともとあったもの」であり、人間がそれを発見するという考え方をしていました。ゆえに、人間が知っている概念というのは存在しているもの、とされたのです。
(そもそも作り出すからゆえに知るのか、知るゆえに存在するのか、どちらが正しいのかはわからないです。でもイデア論は観念という世界観を創りだしてしまったため、後者の立場を取ることになりました) 

さて、神が存在するとしましょう。すると次のような反論がとんできました。

「おかしいな?神様ってのは完璧なんだろ。なんで悪の性質を持った人間ってのがいるんだ?それは神が完璧な存在じゃないからじゃないのか?」

うむ、鋭い。確かに神が完璧であれば、この世に悪なんて存在するはずがない。なのになんで存在するのだろうか?

この問いに対する答えが「自由意志」なのです。アウグスティヌスはこのように答えます。

「神は人に自由意志を与えてくださった。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの意志によってなされるものなのだ。神は自分の意志に基づいて、善をなすことを期待していたのだ」

自分の無力さ、自分の失恋、そういったものを全て自分の運命だと思おうとしたことはありませんか?そう、昔の人のたちはそのように考えていたのです


尺度を作った人

アウグスティヌスの偉業は何より、尺度を作ったことです。

イデア論に対する批判の一つに、「汚物」は醜いのイデアがあるのか、それでも美しいのイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。これについて、アウグスティヌスはこのように解釈します。

「いやいや。世の中には尺度のイデアがたくさんあるだけなのだ。醜いイデアというのは存在しない。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのだ。そしてそのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなる」

つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二択で考えず、濃淡で捉えるようにしたのです。これによって、善悪について以下のように主張することになります。

「この世には悪というものは存在しない。悪とは単に善が欠けているだけの状態なのだ」

もし神が万能なのであれば、この世界には”悪”というのがあってはならないという主張があるのですが、アウグスティヌスのこの説明によって、”悪”とは単に人間の自由意志が善を成し得なかったがために生まれたものだという説明になるのです。

アウグスティヌスは神の万能さを守ることを使命として生き、最後まで守り抜いたのです。


アウグスティヌスのすごいところ

今まで見てきましたとおり、キリスト教の論理を強くしたのがアウグスティヌスです。実は中世の始まりは彼から始まったといっていいでしょう。

前提の確認で見てきたように、キリスト教は迫害される可能性がなくなりましたので、これから一気に発展していきます。アウグスティヌスがまずキリスト教の論理を強化し、そして次に紹介するのトマス・アクィナスが哲学をめった打ちにします。

アウグスティヌスとトマス・アクィナスはまさに、神学VS哲学における、神学側の切り札だったのです。そして最終的には神学が勝ち、中世の価値観すなわちキリスト教を達成してしまった。中世の人々の思考を支配した人物、それはアウグスティヌスだったといってもいいのではないでしょうか。

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