鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年になった理由

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  • 2015年04月13日公開
キーワード
鎌倉時代
鎌倉幕府
源頼朝

鎌倉幕府の成立年は1192年?1185年?

突然ですが、鎌倉幕府の成立は何年であると教わりましたか?

 

皆さんが小学校の頃、鎌倉幕府の成立年を覚えるために「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方も多いのではないでしょうか?

鶴ヶ岡八幡宮

 

ところが、現在では、”歴史学での鎌倉幕府の成立年は1192年ではなく、1185年である”という説を採用しています。


教科書の記述を検討してみても、鎌倉幕府の成立についての記述は以下のようになっています。

「1185年、兵士の滅亡後、頼朝の権力の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実験を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、最後国もおよぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。」
                        引用元:『詳説 日本史B』(山川出版社)

 

いかがでしょうか?


これまでは源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年をもって鎌倉幕府の成立=鎌倉時代のはじまりとされていたのですが、今では別の視点から鎌倉幕府の成立を定義するようになりました。(後ほど詳述します)

とはいえ、この1185年で決着がついたわけでもありません。

日本史の各時代を政治史の面で振り返ってみてください。
奈良時代→平安時代→鎌倉時代→室町時代→江戸時代→明治時代→大正時代→昭和時代→平成時代という順番を見て何かお気づきになることはないでしょうか?

奈良時代~平安時代は都の所在地を指しているのに対し、鎌倉~江戸時代は武家政権の所在地をもとに時代としています。さらに明治時代以降はまた天皇の名前を基に時代区分していますよね。
この点について詳しくは拙稿、

日本の歴史を教える心構え~時代区分編~

をご参照頂きたいのですが、実は、日本史の時代区分というのは極めて曖昧なものなのです。鎌倉幕府の成立年が1185年というのも、数ある説の中の1つであり、新しい発見がされたということではありません。

ではそれは一体どういうことか、鎌倉時代を指導する際の教材研究として、本稿では

鎌倉幕府の成立年がなぜ1185年になったのか

という事について塾講師の皆さんが知っておきたい情報を提供します。


平家滅亡~鎌倉幕府の成立まで

まずは、鎌倉幕府が誕生するまでの源氏が平家政権を打倒するところから確認しましょう。
保元の乱・平治の乱において勝利をおさめた平家はその後、武家政権の先駆けとして圧倒的な勢力を誇っていきます。しかし、こうした勢力の拡大に快く思っていなかった後白河法皇がついに動き出します。

1177年、平氏打倒を計画する「鹿ヶ谷の陰謀」が起こります。
これには朝廷の権力者で、院政を行っていた後白河法皇が画策していたことが明るみになり、平清盛は後白河法皇を幽閉します。さらに、その陰謀に関わった関白やその他関係者の貴族を処罰し、平家の権力をより強める結果となりました。しかし、力で押さえつけるところには不満が生じます。残りの貴族層が反平氏で固まってしまうことにもなりました。

反乱

そして1180年に平家の血を引く安徳天皇が即位したことに危機感を抱いた以仁王が動き出します。
以仁王の令旨です。令旨とは皇太子が出す命令の事ですが、この命令によって平氏打倒に向け、本格的に源氏が動き出します。この時点では、平清盛率いる軍の強さにより、あえなく失敗に終わりますが、これをきっかけに全国が内乱状態(治承・寿永の乱)になりました。

しかし、こうした状況の中でも平清盛は後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を引き連れて無理やり福原京に移すなど、上皇、天皇を凌駕する勢力を未だに持っていました。
そして、1181年に高倉上皇が没してからその流れが変わります。

後白河法皇の復権

当時、上記のように天皇や上皇が複数いる中で、政務を司る上皇が「治天の君」、つまり君主として君臨していました。

平清盛は、鹿ヶ谷の陰謀などで自らを危機に追い込もうとした後白河法皇ではなく高倉上皇に「治天の君」の座を握らせていましたが、その高倉上皇がいなくなってしまいます。

まだ幼い安徳天皇は年齢的にも上皇とは程遠い年齢、致し方なく清盛は後白河法皇に再び「治天の君」の座を認めることになりました。さらに、同年に平清盛も病気によって死亡し、実質的に後白河法皇にその権力が返り咲いたと言える状態になります。

そして後白河法皇は再び平氏打倒へ動き出します。手始めに木曽義仲に平氏追討の院宣を与えます。
これは明治維新の際にも共通するところなのですが、権力を握る天皇(この場合は上皇)が「平家を倒せ」という命令を出すことによって、それまで政権を握っていた平家が社会の中で反逆者の立場となってしまいます

この後ろ盾を得た源氏は、1183年から激しく繰り広げられる源平合戦で平家を西へ西へと追い込み、ついに1185年に壇ノ浦の戦いでついに平家との戦いに勝利という形で決着をつけました。

 

なぜ1185年に鎌倉幕府が成立したとされるのか

ここまで確認した上で、なぜ1185年が鎌倉幕府の成立年が変わった理由を確認しましょう。

ここでもう1人重要な人物が登場します。

平家との戦いの最大の功労者の1人、源義経です。

義経は鎌倉幕府初代将軍頼朝の異母弟でした。

平家という共通の敵がいる間は互いに協力しあっていた2人でしたが、壇ノ浦の戦い以降義経は自らの行動で頼朝を怒らせてしまい、義経追討を決定し、内紛状態に陥ります。

義経
義経が頼朝を怒らせた原因としては、頼朝の許可無く後白河法皇から官位を授かったこととされていますが、実際は義経の権力が高まることによって頼朝にとっての脅威となることを避ける、リスク回避の行動であったという見方が強いようです。

こうした内紛で頼朝は義経を討つために諸国を探索する事を理由として、源頼朝は1185年諸国に守護・地頭を設置する権限を後白河に認めさせました。

鎌倉幕府が1185年に成立したとされるのはまさにこの下線部の部分を重視しているのです。

守護というのは、律令体制の時の国司の権限を引き継いだものであり、これを任命する権利があるということは(守護を設置できる国に限っては)頼朝の支配下に組み入れることが出来た。

つまり、この時期を有力視するのは1192年に征夷大将軍に任命される以前から、
「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立したといえるのではないか」
このように考えるからなのです。

とはいえ、冒頭で述べたようにこれで決定ということでは全くありません。以下で詳述しますが、この1185年というのは数ある説の中の1つの中で有力なだけだからです。

まだある!鎌倉時代成立の6説

数ある説の中の1つにすぎないとはどういうことか、実は鎌倉時代の成立年については他にも見方があります。簡単ではありますが、時系列とその根拠を追って確認しましょう。

①1180年説
頼朝が侍所(御家人の管轄機関)を設置
→この時すでに南関東ほぼ全域を支配下においていた
②1183年説
朝廷から頼朝に対し、東国の支配権を承認する宣旨を出す。
→朝廷が頼朝に東国限定という条件付きではあるが支配権を認めた
③1184年説
頼朝が公文所、問注所を設ける
→政務、裁判の仕組みが整った
④1185年説
頼朝は諸国に守護・地頭を置く権利を得る。
→本稿参照
⑤1190年説
→頼朝、征夷大将軍よりさらに上の官職である右近衛大将に任命される
⑥1192年説
→頼朝、征夷大将軍に任命される

というように、頼朝が侍所や公文所、問注所を設置するのと並行して、朝廷から次々に権限を与えられ、その支配体制の外堀を固めていることがお分かり頂けるのではないでしょうか。

こうして見てみると、1192年の征夷大将軍の任命をもって、鎌倉時代の出発点とするのには確かに違和感を感じるなという方もいらっしゃるのではないでしょうか?

まとめ~鎌倉時代の成立はいつか~

さて、本稿では何故鎌倉時代の成立時期が1192年から1185年の説を有力視することになったのか、諸説も含めて説明してきました。

冒頭でも少し触れましたが、この「鎌倉幕府の成立年」は歴史の史実を争っているのではなく、学術用語として「鎌倉幕府」と呼ぶには何をもって鎌倉幕府と定義できるのか、という歴史の解釈の問題なのです。

ですから、入試においてもこのような学問的背景を踏まえているならば「鎌倉時代は何年に成立したのか」というような出題はしないはずです。

しかし、生徒たちが歴史を捉えるためには時代を捉える基準というものが有効になります。なので鎌倉時代の捉え方についても本稿で紹介した
①守護・地頭の設置権限を手に入れたことによる武家政権の成立を重視するのか(1185年説)
②朝廷が征夷大将軍に任命して正式に武家政権を認めた時期が成立年と考えるのか(1192年説)

という事とその他の諸説も含めて歴史を教える皆さんには常にこの問題にアンテナをはっていてほしいと思い、本稿を執筆しました。

長くなりましたが本稿は以上です。

ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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