古代の政治を動かした血筋
皆さんは平安時代というとどのようなイメージを思い浮かべますか?
・貴族社会が花開いた華やかな時代
・大規模な戦乱のない平和な時代
・国風文化が生まれた時代
平安時代の末期には、源平合戦を代表とするような武士同士の争いも起こるのですが、
時代そのものに対して、上記イメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか?
時代名の由来となった平安京という言葉も「平安」な時代になるようにとの願いから付けられた名前です。
中世以降の武家政権期と比べると、平安時代はたしかに華やかなイメージがあてはまるかもしれません。
しかし、中世以降のような激しい武力衝突はなくとも、権力をめぐる壮大な闘いがありました。
平安時代の貴族政治の頂点に立った藤原氏はまさに権力争いで勝利をおさめ、政治を裏から操った一族です。
藤原氏の栄華を示す和歌に以下のようなものがあります。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」
引用元:『小右記』
これは藤原氏が全盛期を迎えた時に、藤原道長がその誇らしさを思いにのせた歌です。
平安期という時代像を正確につかむためには、藤原氏が勝ち上がった権力争いを理解し、
その政治の仕組みをつかむことが求められています。
本稿では、上記の問題意識から、
平安時代、権力を握った摂関政治とはどのようなものだったのか
をわかりやすく説明する方法をご紹介します。
コンテンツ
1.藤原氏とはどのような一族か
2.藤原氏が権力を握るプロセス
3.摂関政治の仕組み
4.藤原道長が関白にならなかった理由
1.藤原氏の動き
冒頭の説明で平安時代に権力を手にした藤原氏、とご紹介しました。
摂関政治の中身に入る前に、藤原氏とはそもそもどのような一族なのか?
そこから確認していきましょう。
藤原氏を最初に名乗ることが許されたのは、中臣(→藤原)鎌足です。
日本が律令国家へ歩むきっかけとなった大化の改新で、中大兄皇子(後の天智天皇)とクーデターを起こした人物ですね。
<参考>
【日本史講師対象】大化の改新は何故起こった?古代史上最大のクーデターの本質に迫る授業方法
そんな中臣鎌足が晩年その功績を評価されて手にした姓が「藤原」でした。
こうして見ると、時代を超える歴史のつながりを感じますよね。
藤原家が政界に進出するきっかけを作ったのが、この藤原鎌足だったわけですが、
平安時代、藤原氏はどのように権力を握っていったのでしょうか?
そのプロセスをここからご説明します。
<ここがポイント>
藤原氏が政界に進出したきっかけは、大火の改新にあった
2.藤原氏が権力を握るプロセス
平安時代初期の段階では桓武天皇、そして嵯峨天皇が強い支配力を発揮します。
そのため、この段階では貴族が国政に強く関わるような状況は生まれませんでした。
しかし、同じ時期藤原北家は、天皇家との結びつきを強めています。
藤原北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇から全幅の信頼を手に入れたために、蔵人頭への就任を果たし、
皇室と姻戚関係=親戚になることにも成功しました。
<参考>
・藤原北家・・・藤原不比等の4子がそれぞれ興した4つの家の1つであり、この後最も隆盛していく。
他に南家、京家、式家がある。
・蔵人頭・・・天皇の側近で、機密文書や粗書譜を扱う令外の官。そして、藤原冬嗣の息子・藤原良房の代からは権力奪取へ本格的に動き出します。
藤原氏が平安時代にいかに力を伸ばしたのか、時期を追ってご覧ください。
①842年 承和の変
▶伴健岑・橘逸勢という他氏の有力勢力を退ける。また、これによって藤原氏の中で北家を台頭させるこ
とにも成功。その後、858年に幼少の清和天皇が即位し、良房は天皇の外祖父として摂政に就任。
②866年 応天門の変
▶伴善男が朝堂院の正門である応天門に放火し、さらに源信にその罪を追わせようとしたとして流罪に処せられる。
③884年 藤原基経が光孝天皇即位に際して事実上の関白に就任
④887~888年 阿衡の紛議
▶光孝天皇に指示された藤原基経が、宇多天皇が就任する際に発した勅書に抗議して撤回させた事件。
⑤901年 菅原道真左遷
▶左大臣藤原時平が菅原道真が道真の女婿を即位させようと画策していると訴え、道真を左遷させた事件。
⑥969年 安和の変
▶左大臣源高明を藤原氏が失脚させる。こちらも源高明の女婿のために平親王を擁立しようとした、という噂によるもの。
上記の表を見るとわかるように、9世紀半ばごろから摂政・関白の地位には藤原氏の人物が就いて
政治をリードするようになりました。
<ここがポイント>
藤原氏は平安初期に天皇家との結びつきを深め、中期以降(承和の変~)権力を高めていった
3.摂関政治の仕組み
摂関家内部でも、地位をめぐる激しい権力闘争はありましたが、10世紀末の藤原道長の代で収まりました。
天皇家との密月な関係を最大限利用した藤原道長は4人の娘を次々と皇后、皇太子とすることに成功します。
平安時代、妻は結婚後も父の庇護を受け、かつその子どもは母方の祖父が養育する習慣になっていました。
つまり、子どもが天皇となった時も育て(祖)父として、強い影響力を発揮することができたのです。
このように、母方の外戚として天皇に近づき大きな権力を握ることを外戚政策と呼びます。
道長の子・頼通もこれを上手く利用し、3天皇の50年にも及ぶ期間権力を保ちました。
この摂関政治という仕組みをどう説明するか。以下の図と用語をご覧ください。
上図の通り、摂政・関白は公卿会議と天皇との間で伝達の役割を担っています。
- 摂政・・・天皇の幼少期に政務を代行
- 関白・・・天皇の成人後に後見役として政務を補佐
- 公卿会議・・・政治の方向性を決める政策会議
この仕組みを見て何かお気づきになることはないでしょうか?
公卿会議で決定した政策を天皇に伝達し、実行するか否かを確認するまでの間に摂政・関白がいますよね。
摂政・関白の建前上の仕事は、決定した政策を天皇に伝達してその確認を取る窓口になることです。
そうすると何が起こるか。例えば、まだ幼くして就任した天皇の場合を考えてみてください。
公卿会議で決定した政策が有効なのかどうか、幼い天皇が客観的に判断することは難しいですよね。
このように、天皇に代わって政策を許可するかどうか?実質的な政務を代行するのが摂政というわけです。
<ここがポイント>
折衝は、外戚という立場を利用して政治の実質的な決定権を持っていた。
4.藤原道長が関白にならなかった理由
しかし、ここまでの内容と少し矛盾するようですが、全盛期をきわめた藤原道長は「関白」にはなりませんでした。(よく正誤問題でも問われます!)
それは一体なぜだったのか?その点について考えてみましょう。
まず、摂政・関白という地位は天皇を中心とする律令制に規定されていない特殊な職でした。
地位が高く政策決定にも関与できますが、律令に規定がないため具体的な権限は伴っていなかったのです。
であるならば、道長は位的に1つ下である左大臣に居座る方が有効だと考えました。
それはなぜか。
先ほどの図(「摂関政治の仕組みとは」)にもある通り、関白の役割は政策を天皇に伝えることであり、
重要事項を決定する公卿会議には参加しないことになっていました。
左大臣は、除目(貴族の人事)の決定権を持っています。
上の図では並列して記しましたが、非常置の太政大臣がいない時、左大臣と右大臣では実質的に
左大臣の方が立場は上※となっています。
※「左大臣」「右大臣」の左右とは、天皇から見た左と右のことを指しています。
京都にある天皇の内裏(天皇の居る所)から見て左側に位置する左京区は日が昇る上座に位置しているた
め、上位とされています。
つまり、肩書としては「関白」の方が天皇により近い存在ですが、名がある分実質的な権力がありません。
ゆえに、道長は(肩書は少し低くとも)実質的な権利を手中に収められる左大臣を選んだわけです。
さらに、藤原道長は「内覧」という地位にも就任し、天皇に奉る文章や天皇が発する文書に予め目を通す
権利を手に入れました。
ここまでの文脈から、道長が実質的な権利を重視していたことがよりお分かり頂けると思います。
<ここがポイント>
道長は、実質的な権力を行使するため「関白」ではなく、「左大臣」を選んだ
まとめ
ここまで、摂関政治の全体像をより深く理解するために説明したい内容をお伝えしてきました。
最後に指導のポイントをまとめると、
テーマ:摂関政治は摂関が活躍するけどしない政治!?
◯藤原氏の栄華
(1)藤原道長が詠んだ歌
(2)藤原氏の台頭
(3)権力掌握過程
◯摂関政治の仕組み
(1)摂政・関白とは?
(2)政治はどのように動かされていたか
(3)外戚政策との関連
◯藤原道長の動き
(1)藤原道長はなぜ関白にならなかったか
(2)有名無実よりも無名有実
となります。上記のポイントをおさえられれば、生徒は摂関政治の全体像をつかむことが出来ると思います。
長くなりましたが本稿は以上です。
ここまでお読み下さりありがとうございました!
【あわせて読みたい記事】